1987-08-26 第109回国会 衆議院 社会労働委員会 第6号
○前川参考人 私も実は総評本部でこの仕事を担当するようになってまだそう長い期間ではございません。
○前川参考人 私も実は総評本部でこの仕事を担当するようになってまだそう長い期間ではございません。
実は、御存じのように、私自身は総評本部で現場の労働運動にかかわってきました。そういう立場から申しますと、人事院勧告の完全実施に至る長い長い歴史というものをここで顧みざるを得ないのであります。そこに至る経過の中には、関係各位の誠意あるいは大変な御努力があっただろうと思うし、ある種の歴史の重さというものを私はその中に感じます。
その間、いまの総評をつくって、総評本部の副議長に至りまして、副議長も四年何カ月やっておったのですから、たくさんの組合をつくってきた一人ですから、知らなくはない。 ところで、この規則に別表がついておる。これは医者が決めるんだと言うけれども、これがまたそう簡単ではないのですよ。私の兄貴も公立病院の医者だけれども、医者というのは井の中のカワズで、世間のことは知らない。本当にそうなんだ。
私も実は、御存じのとおり全逓本部の書記長だ、副委員長だなんかやっておりましたし、総評本部の副議長も長くやっておりましたから、たとえば新宿の厚生年金会館なんというのは、当時の労働大臣、労政局長さん以下に、私、総評副議長時代に何遍かひざ詰めで話し合いをいたしまして、厚生年金の積立金なんかも、これは全駐労なんという組織はいい例で、かつて四十万もいたわけですよ。みんな厚生年金に入っていた。
そこで、私はかつて苦い経験がございまして、例の勤評問題のときに、私、神奈川でございますから、さんざんもめにもめてもめ抜きまして、神奈川方式なんというものを、私ども苦労して中に入ってまとめた時代がございまして、私は総評本部の副議長時代でございましたから、出身県でございますから、神奈川には往生した時代がございまして、一つ間違うと、これからはそれに類するようなところが県によりましては出てきそうな気もするわけであります
私は総評本部の副議長を長年やっておったのだから。夜中だって三交代、四交代のところもある。民間企業へ行って、一生懸命入り口に待っててものを言ったこともある。民間企業のほうがもっと過酷ですよ。労災の中に夜通勤途上というのが入ってないということが間違っている。公務員のほうに入ったのには入るだけの理由がある。この間ぼくのところにある人が飛び込んできて、頑迷固陋な局長がいる。
○大出委員 昔、私が総評本部におりますころに、全国旅客という団体がございまして、そのころは、累進歩合というものがいかに悪影響を与えているかという点をしみじみ感じておりました時代でございますので、いまは累進歩合というものは、押える傾向をもってずっと皆さんも指導してこられているから、おそらくいま累進歩合なんて考えたら、そこに労働者が定着しなくなっちゃうと思いますから、経営者もやれない。
私も実はあの時代に、総評本部の副議長、太田、岩井のまん中で筆頭副議長を長くやっておった。くしくもいまの全港湾の委員長の金田さんが同じ副議長で一緒にやっておったのですが、この時代に、あのときむしろ、運輸省なら運輸省という官庁よりも、これは通産省その他みんなからむのですけれども、労働省のほうが出やすい状況にあった、そういうこともあります。
その間、総評本部の副議長をやっている。それで私が三十八年に衆議院に出てくるときにはこんなことは全くない。けんかするときは思い切ってする。するが、これは労使関係のルールですから、仕事するときにはぴたっとやめてする。それでいいのだ。大げんかしてあいつの首を切れと言ったことだってある。だから、やりたければみんなの首を切ればいい。処分をすればいい。そんなことはしようがない、ルールだから。
労使関係と申しますものは、私も長い総評本部副議長の経験もありますけれども、これは、ときに一に一を足したら二にならぬことがある。それは何かと言うと、お互いに力の関係があるからですよ。
三十五年だと思いましたが、私が総評本部の太田一岩井ラインのまん中で筆頭副議長の時代でございましたから、あのときに国会で決議をしておったわけですから、四十四年にも相当一生懸命になった時代がある。これは日の目を見ずにつぶれてしまった。だが、今回のは、大蔵省が金利引き下げを出したでしょう。郵政省も協力しろと言って、廣瀬さんがまっこうから反対された。
これは何をするかわからぬから警戒していたのだとおっしゃればそういうことになるかもしれませんけれども、これは私もかつて総評本部におったとき同じような状況がありますけれどもね。だから少なくともそのことについては、そういう現象がある限りは知らぬことはない。明治神宮に二十幾つかの団体が集まっていろいろ協議をしていることについても知らないことはない。
そこで私、当時、今日の総評本部の副議長の時代ですが、私は代表団長で朝鮮に参りまして、清津の港で第六次帰国船が帰ってくるのを、これは日本人は初めてですが、迎えてみた。それまでに半月かかりまして、帰った方々がどうなっているか、それから、受け入れのやり方を調査した。それから、朝鮮のしかるべき方々に会っていろいろ話を聞いた。桜の木を五十本持っていって記念に植えるということまでやってきたのです。
私は、総評本部で副議長をした時代に、物価対策委員長を三年やっているのです。だから、あの時代もずいぶん方々でものを言ったのです。
さらに総評本部からも、これは私ども社会党のほうもまたその内容について全く同感でありまするが、御承知のように、次の六項目の申し入れをしたわけであります。
○公述人(島清丈君) 総評本部の島でございます。労働組合の立場から申上げたいと思いますが、総評は三百万人の大きい組織でございますが、家族を含めましても一千万以上ございます。ところがこの頃私たちの総評のほうにありとあらゆる団体がいらつしやいます。
そこで他の二、三のあいさつを求めていた総評本部の柳本氏等も、灘井五郎氏と同じく発言を許さなくてはならぬという事態を考えましたので、同じ条件ということで二、三の者の発言を許しました。そうしてそのメッセージ終了後デモに移つたということであります。
これは、左派社会党がイニシアチーヴをとり、労働戦線の統一をしようとした、せつかくの目的が、日共の糸を引く民統系労組のために完全に乘つ取られたわけで、これは、ただに、京都総評の弱体、無統制ぶりを暴露するのみならず、また今日の総評本部が、その理論的な立場と戰略論において共産党に近似する当然の結果ともいえるのであります。
それから越えて五月一日の午後二時から総評本部は高野氏、柳本氏ほか十名内外の参集の上で、午前十時次のような問題を具体的に決定されたのであります。午前十時皇居前広場に集まること、プラカード、小旗、組合旗を持参すること、吉田首相の祝辞の際喚声を上げて、更に式終了直前にメーデー歌を歌つて、そうして揃つて退場するという方針を決定されたのであります。