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19件の議事録が該当しました。

該当会議一覧(1会議3発言まで表示)

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1981-11-12 第95回国会 衆議院 内閣委員会 第2号

実は、御存じのように、私自身は総評本部で現場の労働運動にかかわってきました。そういう立場から申しますと、人事院勧告完全実施に至る長い長い歴史というものをここで顧みざるを得ないのであります。そこに至る経過の中には、関係各位の誠意あるいは大変な御努力があっただろうと思うし、ある種の歴史の重さというものを私はその中に感じます。

岩垂寿喜男

1977-03-11 第80回国会 衆議院 予算委員会第二分科会 第1号

その間、いまの総評をつくって、総評本部の副議長に至りまして、副議長も四年何カ月やっておったのですから、たくさんの組合をつくってきた一人ですから、知らなくはない。  ところで、この規則に別表がついておる。これは医者が決めるんだと言うけれども、これがまたそう簡単ではないのですよ。私の兄貴も公立病院医者だけれども、医者というのは井の中のカワズで、世間のことは知らない。本当にそうなんだ。

大出俊

1976-05-06 第77回国会 衆議院 内閣委員会 第5号

私も実は、御存じのとおり全逓本部書記長だ、副委員長だなんかやっておりましたし、総評本部の副議長も長くやっておりましたから、たとえば新宿の厚生年金会館なんというのは、当時の労働大臣労政局長さん以下に、私、総評議長時代に何遍かひざ詰めで話し合いをいたしまして、厚生年金積立金なんかも、これは全駐労なんという組織はいい例で、かつて四十万もいたわけですよ。みんな厚生年金に入っていた。

大出俊

1976-03-02 第77回国会 衆議院 内閣委員会 第3号

そこで、私はかつて苦い経験がございまして、例の勤評問題のときに、私、神奈川でございますから、さんざんもめにもめてもめ抜きまして、神奈川方式なんというものを、私ども苦労して中に入ってまとめた時代がございまして、私は総評本部の副議長時代でございましたから、出身県でございますから、神奈川には往生した時代がございまして、一つ間違うと、これからはそれに類するようなところが県によりましては出てきそうな気もするわけであります

大出俊

1973-06-05 第71回国会 衆議院 内閣委員会 第26号

私は総評本部の副議長を長年やっておったのだから。夜中だって三交代、四交代のところもある。民間企業へ行って、一生懸命入り口に待っててものを言ったこともある。民間企業のほうがもっと過酷ですよ。労災の中に夜通勤途上というのが入ってないということが間違っている。公務員のほうに入ったのには入るだけの理由がある。この間ぼくのところにある人が飛び込んできて、頑迷固陋な局長がいる。

大出俊

1972-06-02 第68回国会 衆議院 内閣委員会 第30号

大出委員 昔、私が総評本部におりますころに、全国旅客という団体がございまして、そのころは、累進歩合というものがいかに悪影響を与えているかという点をしみじみ感じておりました時代でございますので、いまは累進歩合というものは、押える傾向をもってずっと皆さんも指導してこられているから、おそらくいま累進歩合なんて考えたら、そこに労働者が定着しなくなっちゃうと思いますから、経営者もやれない。

大出俊

1972-05-19 第68回国会 衆議院 内閣委員会 第23号

私も実はあの時代に、総評本部の副議長太田岩井まん中筆頭議長を長くやっておった。くしくもいまの全港湾の委員長の金田さんが同じ副議長で一緒にやっておったのですが、この時代に、あのときむしろ、運輸省なら運輸省という官庁よりも、これは通産省その他みんなからむのですけれども、労働省のほうが出やすい状況にあった、そういうこともあります。

大出俊

1972-05-17 第68回国会 衆議院 内閣委員会 第21号

その間、総評本部の副議長をやっている。それで私が三十八年に衆議院に出てくるときにはこんなことは全くない。けんかするときは思い切ってする。するが、これは労使関係ルールですから、仕事するときにはぴたっとやめてする。それでいいのだ。大げんかしてあいつの首を切れと言ったことだってある。だから、やりたければみんなの首を切ればいい。処分をすればいい。そんなことはしようがない、ルールだから。

大出俊

1972-03-25 第68回国会 衆議院 予算委員会第五分科会 第6号

三十五年だと思いましたが、私が総評本部太田一岩井ラインまん中筆頭議長時代でございましたから、あのときに国会で決議をしておったわけですから、四十四年にも相当一生懸命になった時代がある。これは日の目を見ずにつぶれてしまった。だが、今回のは、大蔵省が金利引き下げを出したでしょう。郵政省も協力しろと言って、廣瀬さんがまっこうから反対された。

大出俊

1969-04-24 第61回国会 衆議院 内閣委員会 第19号

これは何をするかわからぬから警戒していたのだとおっしゃればそういうことになるかもしれませんけれども、これは私もかつて総評本部におったとき同じような状況がありますけれどもね。だから少なくともそのことについては、そういう現象がある限りは知らぬことはない。明治神宮に二十幾つかの団体が集まっていろいろ協議をしていることについても知らないことはない。

大出俊

1967-06-09 第55回国会 衆議院 内閣委員会 第17号

そこで私、当時、今日の総評本部の副議長時代ですが、私は代表団長朝鮮に参りまして、清津の港で第六次帰国船が帰ってくるのを、これは日本人は初めてですが、迎えてみた。それまでに半月かかりまして、帰った方々がどうなっているか、それから、受け入れのやり方を調査した。それから、朝鮮のしかるべき方々に会っていろいろ話を聞いた。桜の木を五十本持っていって記念に植えるということまでやってきたのです。

大出俊

1952-04-10 第13回国会 衆議院 本会議 第30号

これは、左派社会党がイニシアチーヴをとり、労働戦線の統一をしようとした、せつかくの目的が、日共の糸を引く民統系労組のために完全に乘つ取られたわけで、これは、ただに、京都総評の弱体、無統制ぶりを暴露するのみならず、また今日の総評本部が、その理論的な立場と戰略論において共産党に近似する当然の結果ともいえるのであります。

森山欽司

1951-05-14 第10回国会 参議院 労働・地方行政連合委員会 第1号

それから越えて五月一日の午後二時から総評本部は高野氏、柳本氏ほか十名内外の参集の上で、午前十時次のような問題を具体的に決定されたのであります。午前十時皇居前広場に集まること、プラカード、小旗、組合旗を持参すること、吉田首相の祝辞の際喚声を上げて、更に式終了直前メーデー歌歌つて、そうして揃つて退場するという方針を決定されたのであります。

田中榮一

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